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2010/08/16
「多喜二の思いを受けとめた旅」 視覚障害者9条の会小樽ツアーに参加して
投稿: 旅システム (4:10 pm)
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井上ひさしさんが亡くなられ、最期の戯曲「組曲虐殺」が多くの人に注目されています。私もすぐに集英社から出版された脚本を購入して読みました。 その中で特に心を打たれたのが多喜二の次の言葉です。 「世の中にモノを書く人はたくさんいますね。での、そのたいていが手の先か、体のどこか一部分で書いている。体だけはちゃんと大事にしまっておいて、頭だけちょっと突っ込んで書く。それではいけない。体ぜんたいでぶつかってかいなきゃねぇ。 中略 (左手を胸にあてて) 体ごとぶつかって行くと、このあたりにある映写機のようなものが、カタカタと動き出して、その人にとって、かけがえのない光景を、原稿用紙の上に、銀のように燃えあがらせるのです。ぼくはそのようにしてしか書けない。」 小樽ツアーの間中、私は多喜二の見た風景や歩いたであろう道をしっかり、感じ取ろうと意識していました。参加者の皆さんも、内山さんや青木さんの説明に耳をかたむけ、深く受けとめているように思いました。 銀行員としての安定した生活を捨てて、どうして命を奪われるまで活動したのか、できたのか。いくら考えても理解できないことのようでもあり、意外と人間はそうした行動をするのかもしれないと考えたり、一日の旅の間中、多喜二の人生をなぞっていました。 お墓まいりも展望台も文学館も坂道も、強く心に刻みこまれた一日でした。「平和な時代」に生きていると錯覚しがちな現代を生きる私たちは、自分の体ぜんたいで時代を感じ、表現していかなければいけないのだと感じました。 たくさんの貴重な資料を用意していただいたこと、行程や食事会場など、細かな配慮が随所になされていたことに心から感謝しています。企画し、準備をしてくださった、九条の会事務局の皆様、旅システム方々にはどれほどの御苦労があったことでしょう。心からお礼を申し上げます。真剣に平和や憲法について考え、活動されている皆様とごいっしょできて、本当にうれしい一日でした。 高橋 尚子
6月27日。29度の猛暑の中、24名の一行は50人乗りのバスに悠々と座席をいただき、旅システムの案内により小樽へ出発しました。 1時間ほどして一行がまず降り立ったのは「小林多喜二住居跡標識」がある小樽築港。ここは、多喜二が幼少期から過ごした家が建っていた場所。 1907年、一家は秋田から小樽へ移住し、多喜二はここから学校や叔父のパン工場へと徒歩で通い、この地区に住む労働者たちにパンや食事を分ける両親を見ながら育った。まさに、プロレタリア文学の金字塔「作家小林多喜二」の誕生地である。 ウイングベイ小樽の動かない観覧車を見つめながら、住居跡標識は何を思っているのだろうか。 次にバスから降り、上った急な坂道のてっぺんには多喜二の墓所がある。生前500円をかけ、この奥沢に母のために建てた墓に、まさか自分が先に入ろうとは、さぞかし無念であったろう。 一同墓石に向かって手を合わせ、多喜二が好きだったバラを献花した。ちなみに当時の500円は今では相当な金額になるらしく、小説家とは儲かる商売なりとおもわずつぶやく私に「売れればね」とWさんが痛い突込みを入れる。が、それほどたくさんの人々から多喜二の作品が支持されていた証を墓石の大きさに実感する。 旭展望台の文学碑を見学し、食事どころ「嵐山」へ。破格のツアー料金にもかかわらず、海の幸、山の幸をふんだんに使ったご馳走の数々。中でもかすべのほっぺたの刺身は、店の社長さん自らマイクを持ってお奨めするほどの絶品珍味。 「旅の思いでは食に始まり食に終わる(我が家の家訓)」舌鼓を打つ参加者から感激の声が多々漏れる。 午後一番で伺った文学館には、日ごろより多喜二のデスマスクのレプリカが展示されている。 多喜二の遺体は、左の頬がげっそりとこけ落ち、歯が折れ、顔面は人相が変わるほどでこぼこに膨れ上がり、首には何度も絞められた跡、足や腕には釘で刺された傷穴が開き、全身出血の跡で黒く変色し、破裂させられた内臓は腐敗が始まっていたという。 特高の妨害により遺体の解剖を引き受ける医師がいないため、仲間は肖像画やデスマスクので多喜二の最後の声を残した。 特高は弔問客までも逮捕した。なぜに、言論の自由がないというだけで、治安維持法の看板を掲げた人間は同じ人間に対してこんなにも残虐非道になり、不可解にも負のレッテルを貼られた先人たちはこのような無残で非業な人生を強いられなければならなかったのだろうか。自由とは、命を天秤にかけなければ獲得しえない1級の贅沢品だったことを、ひどくこけた多喜二の左頬を触りながら確認した。 外に出た一行は、北のウォール街へ。 多喜二が勤めていた旧拓銀の跡をはじめ、有名銀行、企業のビルが80年余の時を経て当時の姿のまま顕在する貴重な文化財地域。そのそばに旧国鉄の古線がある。明治13年に日本で3番目に開通したこの線路で、蟹工船の一節を思い出す。「北海道では、字義通り、どの鉄道の枕木もそれはそのまま1本々々労働者の青むけれた死骸だった。」 命ばかりか手足までももぎ取られ、奉仕させる労働者たちの身の上を多喜二は、はかなんだ。現在という未来は、たくさんの人々の犠牲の上に成り立っていることを、私たちは感謝しなければならないだろう。再び猛暑の運河通りを歩き、石造り倉庫群へ移動。 最後に小樽市総合博物館へ行き、おひょうの木の皮を織り上げたアイヌの布地や、北前船の大きな帆や、小樽湾に打ち上げられた今世紀最大のとどの骨を触らせていただく、 帰りに寄ったかま栄のかまぼこ屋には、楽しそうに働く店員さんの輝く笑顔があった。おそらく多喜二が見たかった労働風景の一つだろう。 暮らしは豊かでなくても、働くことが楽しいと感じられる心のゆとりは、多喜二の願いの一つだったに違いない。命を懸けて守り抜いた多喜二の意思と理想がここ小樽の地に根付いている。 世界は目覚しくは改新しないが心に理想を掲げ続けることで、ほんの少しずつ願いは未来に進んでいく。 心に理想を掲げ続けることで、ほんの少しずつ願いは未来に進んでいく。 蟹工船のラスト「そして、彼らは立ち上がった。もう一度」この一節に言い尽くされた多喜二の精神論を学び、私たちは小樽を後にした。 普段触れられないものに触れさせていただけるなど、特別な計らいをいただけるのも旅システムさんと先方との日ごろからの信頼関係によるものと知り、あらためて感謝の気持ちでいっぱいである。 川瀬 和代
この他、お食事どころ「嵐山」では、靴の着脱の煩雑さを考慮して、お座敷に敷物を敷いていす席にしていただいたり、お料理の説明を視覚障害者にわかるようにしていただくなど、実に行き届いたご配慮をいただきました。ここに、あらためてご報告と感謝の意を著したいと思います。 (事務局) |
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