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 旅システムさんのエントリ配信

2014/12/09
劉連仁墓参と青島・泰山・曲阜歴史の旅

投稿: 旅システム (1:16 pm)

約束の旅



新千歳空港を出発して約5時間。

青島の空は、抜けるように青かった。

天を突き上げ立ち並ぶ超高層建築と、

湾を望む五四(ごし)広場の明るさに思わず目を細めた。

五四広場は、かつてのドイツ・日本の帝国主義に奪われた

山東省の権益(鉄道敷設権や鉱山採掘権など)を

全国民的な力で取り戻した愛国民主運動の

始まり(1919年5月4日)を記念して作られた広場だ。

広場の南側には民主運動の勃発を象徴したという

松明(たいまつ)の形の巨大な金属製の彫塑「五月の風」がそびえ立つ。

その燃え上がる松明(たいまつ)の朱色がひときわ青空に映えまぶしい。

日本の中国侵略といえば1931年の「満州事変」から始まったと思っていたが、

実はそのずっと以前から青島は経済的に日本に支配されていたのだ。

青島の人口は870万人。目を丸くして超高層ビルディングを見上げていると

「ここに住む人、お金持ちばかりね」と、現地ガイドの張さんが皮肉っぽく笑った。

格差の風景はどこも同じである。

今回の旅の目的は、太平洋戦争中に日本政府が行った、

中国人強制連行の生き証人として裁判闘争に身を投じた、

劉連仁氏の墓参であった。

劉さんは31歳の時に北海道の炭鉱に強制連行され、

その後逃亡し発見されるまでの13年間、山中で過酷な逃亡生活を続けた。

長年日中の友好の絆を繋ぎ、劉さんの闘いを支え親交を深めてきた

日中友好協会が呼び掛けて実現した旅である。

数年前から取材を重ね、中高校生のための劉さんの物語を執筆していた私にとっては、

劉さんの生まれ育った故郷に立ち、その地から非道な歴史を見つめ直す旅でもあった。

2日目、いよいよ劉さんの墓所と記念館のある高密市までの115キロをバスで行く。

湾から内陸に入ると景色は一変する。赤茶けた岩肌をむき出した山々。

緑は浅い。莫言の『赤い高粱(こうりゃん)』に描かれた高粱畑を車窓の景色に捜したが、

今はトウモロコシばかりで高粱はもう栽培されていないと張さんが教えてくれた。

果てしなく広がる平地を縦横無尽に走る高速道路。

すれ違う車の殆どは乗用車ではなく物流のトラックだ。

天地無用の、羊を生きたままスシ詰めにしたトラックも走り去る。

羊は火鍋という料理に使われるそうだ。

それにしてもつい5年前にはこれほど高速道路はできていなかったというのだから、

凄まじい勢いで中国は経済成長を遂げていることになる。

青島から2時間、路肩いっぱいにトウキビが天火干された、

静かな田園風景の一角に劉さんの墓所はあった。

石塀に囲まれた劉さんの眠る大きな土饅頭。

そのまわりの疎林には、草生(くさむ)した大小さまざまな土饅頭がいくつもあり、

そのどれもが一族のものだという。全ては自然の中に帰す。漢民族の習わしだ。

ご遺族と一緒に劉さんの墓前に花輪を捧げ、手を合わせてから急に体が震えた。

言葉も文化も風習もまるで違うこの国の人たちを、かつて銃剣で脅し、家族と引き裂き、

無理やり日本に連行したという事実が、劉さんの墓前に立って初めて、

身を切るような実感として私に迫った。

故郷の土に還れなかった人たちもどれほどいただろうか。

どんなに謝罪しても許されるはずがない。

まして誤った歴史を引き継いだままの、我々は未だ当事者なのだ。

記念館に飾られた劉さんの写真の顔は穏やかだった。

迎えてくれた劉さんの奥様の玉蘭さんも温かい。

時代を見つめ続ける92歳のその深い眼差しの前に、頭を垂れ改めて誓った。

心ある人と人との交流で漸くに繋いでいるこの二つの国を、

真の意味で結びつけることを。

歴史を訪ねる旅は重い。

けれどその旅の重さが、明日の生き方を私たちに教えてくれる。

旅の後半は泰山、曲阜の壮大な世界遺産を歩き、

また青島のビール工場で友情の杯を重ね、旅の楽しさも存分に味わった。

医食同源の心づくしの山東料理にも何度舌鼓を打ったか。

そういえば、曲阜の孔府(孔子子孫の私邸)に印象に残った絵があった。

四肢に八仙過海の宝物を持ちながら、それでもなお満足せず天の太陽を食おうとする

「貪」という想像上の動物の絵だ。

人間の果てしない欲望を表した「貪」。その行き着く先に格差や戦争がある。

森越 智子

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