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 旅システムさんのエントリ配信

2012/07/26
道生連50周年記念『先住民の足跡を訪ねる旅』

投稿: 旅システム (11:56 am)
   今年50年の節目の年を迎えた道生連さん。記念のイベントをいくつか企画した中にこの『先住民の足跡を訪ねる旅(2012年7月8日〜10日)』をおこない、旅システムでもお手 伝いをさせていただきました。
 とても充実した、そして道生連さんらしい旅になりました。
 岡崎さんのレポートをご紹介します。

(青木)
 



 結成50年に当たり、北海道生活と健康を守る会の運動の原点を探ろう!ということで設定されたツアーでした。思い返せば、札幌→平取→阿寒→網走→札幌の全行程約600キロを3日間で、平取アイヌ資料館、阿寒湖遊覧(マリモ館)、阿寒アイヌコタン見学・古式舞踊観覧、摩周湖、硫黄山、北方少数民族資料館〜ジャッカ・ドフニ、網走監獄博物館、北方民族資料館、鎖塚の計9ヶ所に立ち寄ってですから、随分と内容の濃い旅だったと言えましょう。

 思いつくままにボク的な感想です。
 日高高架道路で平取に向かう時に、苫小牧東部開発地帯を突き抜けました。ボクが苫小牧に住んでいて仕事で日高路を走った頃は、石油備蓄基地などは国道の高さからでもタンクの“雄姿”が臨めたものですが、あれから二十数年、高架道路の上かもでもタンクが見えないくらいに木々が繁茂しており、農民を立ち退かせ、巨費を投じて造成したのに工場がこなければ数十年で元の森に逆戻り。自然の逞しさと人間の愚かさを痛感した風景でした。
 その苫東に必要な工業用水を確保するとの振れ込みで、アイヌの聖地を湖底に水没させてまでも作った二風谷ダムは、平取アイヌ資料館の目の前。昼食を食べた平取温泉は、子どもが小さい時に家族でキャンプ来たことがある。その時に遊んだ遊具を眺めていたら、遊具の裏に「電源立地交付金で建設」のプレートが。折りしも原発のある自治体にバラまかれた“原発マネー”が思い浮かび、“電力マネー”はこうした使われ方をしているのだと、根っこは同じだとわかった瞬間でした。その二風谷ダムも上流から運ばれてくる砂が湖底に予定より早くたまり、渇水期には湖面に顔を出す始末。
 ここでも人間の造形物の限界と自然のポテンシャルの高さを強く感じました。だから、狩猟採集生活ではあったが自然の流れに逆らわず、川の流れの如く、自然の中で生活を営んでいたアイヌ民族の持つ精神文化の優位性には驚嘆します。それは、今日的に言えば、人間の力では制御できない原発はやめて、再生可能エネルギー=自然エネルギー社会に再構築する事業がそれだ!と強く感じたのでした。
 また、民族の文化を継承する権利を保障するには、その文化継承の営み自身で充分に生計が立てられることが基準ではないか、そのためには既成の法令の概念をこえた制度が必要で、それには少数民族の保護の“先進国”に率直に学ぶ必要があると、阿寒のコタンで数年前に来た時は生活館として貴重な生活用品を見ることができた大型のチセが閉じられていた侘しさから、そう思ったのでした。

   

 アトサヌプリ(硫黄山)では、標茶に立てられた釧路集治監獄の囚人によって硫黄の採掘が行われましたが、樺戸集治監が石狩川流域を開拓し、石狩と旭川を結ぶ今の国道12号線の元を作り、空知集治監が幌内炭鉱の採掘にあたり、網走集治監が旭川と網走を結ぶ今の国道39号線の元を作るのを“担当”しました。つまり、北海道の開拓の礎は囚人による強制労働でした。それは、明治政府の“政策”でした。今でも、噴気孔近くまで行けば、その臭いは強烈で風向きが変わったら咽てしまいます。囚人は、このガスと粉塵で失明し、あるいは過労と栄養失調で倒れ亡くなりました。
 39号線は、「ボヤボヤしているとロシアが攻めてくる」という明治政府の危機感から強行な工事がやられ、網走と空知の囚人千人が動員され、300人が死亡し、路傍に葬られた。そのため、掘ると骨と囚人の足にはめられていた鎖と鉄球がでてくることがあった。そのあとを「鎖塚」として供養しています。また、怪我や病気ではたらけなくなった囚人を人身御供として生き埋めにしたなどの記録もあり、「常紋トンネル」という所では、トンネルの改修工事をしていたら人骨がでてきたりしています。しかし、囚人だから人間扱いされず、強制労働に借り出され、死んだら路傍に埋められる、時には生きたまま埋められる、そんなことが許されてよいのだろうか。しかも、明治政府の圧制に対して自由民権の旗を掲げてたたかった政治犯のほか、政府に抗う者は次々と逮捕・投獄されたために、監獄の維持費用を抑えるために敢えて苦役を与えて、人減らしすることを“政策”としていたのだからヒドイ話です。国民は天皇に仕える臣民で、いざという時は「命は鴻毛よりも軽し」と育てられ、人権意識など微塵もない社会ですから、弱者に陽が当たろう筈もなく、まして国に抗う囚人の命などなんとも思わない社会が、つい70年前の日本です。強制労働や拷問で殺されることはなくなりましたが、取調べや獄中生活での人権軽視は、いまだに見受けられるのが現状です。

   

 網走で、北方少数民族資料館〜ジャッカ・ドフニに行きました。本で知ってはいましたが、アイ子さんが亡くなって閉館になっていたことがショックでした。元教員の弦巻宏史さんが、私たちのために資料館を開けてくれ、解説をしてくれました。兄ゲンダーヌさんは、旧日本領樺太でソ連(当時)の国境地帯でトナカイを追って生活する遊牧民族でした。現地の日本軍はこの習性を利用して、「オタスの杜」で教育し、国境付近でスパイ活動を任務としました。戦争が終わると日本人は本土に戻りましたが、ゲンダーヌさんはそこが故郷ですから残りました。ところが、ソ連からは日本のスパイとしてシベリアの捕虜収容所に送られてしまいました。多くの仲間がそこで亡くなりました。刑期を終えたゲンダーヌさんは、「日本人なろう。日本が助けてくれる」と思い、北海道に渡ってきましたが、戸籍がない、徴兵や徴用の記録がないということで、裁判にまで訴えましたが認められませんでした。
 第二次世界大戦における侵略国で、為政者の戦争責任を曖昧にした唯一の国が日本です。そして、戦争をすすめ国民を苦しめた勢力が堂々と政治、経済、軍事の表舞台に返り咲くことが許されたのも日本だけです。日本が攻め込んだ外国との関係ではその国の政府と“適当”な条約を結んでは、これでおしまい、以降の責任は一切負いませんという内容です。戦時中は、日本の占領地の“民”は皇民化教育を受けさせられ、日本名を名乗らされ、日本人扱いをされて徴兵・徴用を受けました。ところが戦争が終わったら、「戸籍では日本人ではないから」と軍人恩給あたらず放られる、あるいは、その地に置いてきぼりにされるということが各地でありました。中国に満州国を作り、移住させた日本人すら日本に返すことに責任をとらない国が、他民族の面倒を見るわけはないのは当然なのでしょう。
 ドイツでは、戦争責任を明確にし、今でも戦犯を追及していますし、ユダヤ人をはじめ少数民族などナチスによって迫害された国民・他国民への保障を国として果たしています。何と言っても教育を通じて、国が犯した戦争犯罪の内容を知らせ、戦争責任を明確にしてきました。戦後、経済力は世界に誇れるものとなりましたが、国民主権の憲法をもちながら、人権意識という面で遅れている、他国の軍隊が国内で我がもの顔で振舞っても、経済的な圧力をかけられても「条約があるから」と受け入れる。こうしたことの大本に、戦争責任を政治的にも、社会的にも明確にしてこれなかった歴史の“負の遺産”を憲法を国民のものとして社会に根付かせることに成功させられないできた運動の“負の遺産”を背負っているなぁ〜と、ジャッカ・ドフニで痛切に思いました。
 大きく言って、以上3つのことを考えさせられた、意義深い旅でした。満足、満足。

 ところで、網走で解説をしてくれた弦巻さんですが、父親から「弦巻という親類に先生をしているのがいる」と聞いていたので、胸騒ぎがして、思い切って質問を重ねていったところ、やはりお互いの爺様が兄弟でした。つまり、復従兄弟と言うことになります。ボクの爺様は兄弟が多くて、子どものいない岡崎家の養子になったです。婿養子ではないので、血統的にはボクには岡崎家の血は流れておらず、むしろ弦巻家の血筋ということなります。そんな出会いもあったので、グッド・ジャーニー!この上ありません。


2012年7月20日 道生連 岡崎 恵治

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