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 旅システムさんのエントリ配信

2010/03/17
野口敏夫氏――多喜二祭に参加して

投稿: 旅システム (10:40 am)
  2010年2月20日の多喜二祭参加小樽ツアーにご参加いただいた野口さんから早速感想をいただきましたのでご紹介します。
旅システムとしても長年やってきた小樽ツアーをこの日に行うのは初めてだったのですが、大盛況でした。いつものツアーに加えて、多喜二祭の音楽と講演の夕べも素晴らしく、大満足の1日でした。
(青木)
 

 先日は「多喜二祭ツアー」に参加させていただきありがとうございました。たいへん有意義で思い出に残る1日になりました。これも、貴社の社風の一つである平和への熱い思いと、社長さんはじめスタッフのみんなさんの心温まるもてなしの姿勢、臨機応変な指示、そして、社長さんの造詣の深い「多喜二学」による解説や手作り資料、セキさんのめずらしい写真など、すばらしさが尽きませんでした。私は昨年同じ時期にJTBのツアーにも参加しましたが、同じテーマ、同じコースでしたが、その差は歴然です。(但し、小樽市内の案内をされた玉川薫〔副館長、唯一の学芸員〕さんの説明も社長さんのそれに勝るとも劣らないものでした)今回のツアーには、参加者のみなさんとスタッフのみなさんとが多喜二の人間性をまるごと共有し感じ取ろうという一体感がみなぎっていました。

 そこで、私が今回のツアーで感じたことを思いつくままに述べていきます。
 その前に社長さんに文学館で話したことで訂正しなければならないことがあります。それは、多喜二の葬儀の際の香典一覧に載っている「杉並町 由ある三人」の件ですが、塩澤さんの『野呂榮太郎の思い出』(新日本出版社 1976年4月)に書いてあると話しましたが、たまたまその本に狭めて置いた新聞の切抜きを読んでいたための記憶違いでした。筆者の山崎元さんは、『経済』2004年3月号〔102〕にも同様なことを書いています。(尚、山本元さんは、元都議で原水協にも関係しているようです)また、同じく松本剛『野呂栄太郎』(新日本新書1985年1月)にも記載されています。そこには野呂が住んでいた家は「母セキの家から7軒か8軒という近さだった」と書かれていますので、多喜二は他に転居しているので会えませんが、野呂とセキとはすれ違っていたかもしれません。地下活動の当時の野呂をはじめ中央委員3人が多喜二の死に弔意を表して贈ったものであり、文学館でそのコピーを見せていただき感動しました。杉並の家は1931年7月末にセキさんと弟さんと住んでいたようですが、多喜二は地下活動のためにそこには長く住んでいなかったのではないでしょうか。セキさんは、多喜二が死んだときはまだ住んでいました。

 吹雪の中の墓前蔡も感動しました。多喜二の残虐な殺され方を考えると、あの程度の吹雪はなんともありません。身の引き締まる思いで参列しました。この件に関するマスコミの報道で気になることがあります。しんぶん赤旗、朝日・毎日・読売はいずれも写真入で報道しています。ところが道新はどこを見ても載っていません。私の見落としかもしれませんが、残念です。些細なことですが、献花のときの花の置き方ですが、一般的には茎を手前に花びらを墓碑側に置くのではないでしょうか。反対のようでした。きっと最初の方が反対に置いたのでそうなったのでしょう。多喜二を偲ぶのには大した問題ではありませんが。
 ところで、私は前日の19日の平岸霊園で行われた野呂榮太郎の墓前祭にも行ってきました。こちらの方は党関係者の方が主で10名程度でした。私はいずれの墓前祭にも今回はじめて参列しましたので、感慨も一入でした。私は、現在野呂榮太郎が学んだ北海中学と同じ敷地にある大学院経済学研究科で学んでいますが、野呂の学問に対する先駆性と科学性、権力に対する不屈の闘争心を爪の垢ほどでも煎じて飲み、マルクス経済学しっかり学び、身につけたいものです。また来年の墓前祭にはもっと多くの方が参列することを願っています。尚、この墓(1960年建立)と長沼の記念碑(1974年建設)は、塩澤さんとの確認で共産党の道委員会で管理することになっているそうです。確か塩澤さんの住んでいた東京の家は党に寄贈されているはずです。以前まであった「野呂榮太郎賞」は『野呂榮太郎全集』の印税の120万円を塩澤さんが拠出して設立されたそうです(『野呂榮太郎の思い出』巻末年譜より)。

 次に多喜二祭のことです。清水紫さんの「赤き花燃ゆ」は素晴らしかったです。多喜二の心にも伝わるような歌声でした。
 荻野先生の講演は、テーマ「女をおもう」心にたいへん興味をもって聞いていました。もっと講演時間があればよかったなと残念に思いました。タキさんのこともそうですが、不破氏の『小林多喜二 時代への挑戦』(新日本出版社 2008年7月)を読み、「笠原問題」もあって、伊藤ふじ子さんについてたいへん興味をもっていました。一緒に生活する期間(32年4月下旬からふじ子さんが捕まる33年1月まで)は短かったですが、多喜二の最も困難な時期であり、2人の絆の強さを知り、感動しました。ふじ子さんが解雇手当を多喜二に送ったこと、そのことを多喜二が目に涙を浮かべて手塚氏に語ったこと、手塚氏が戦後多喜二とふじ子のことを書いた東京新聞の記事の切抜きをそっとハンドバックにしまっていたことがふじ子さんの死後わかったことなど、読でいてジーンと胸が熱くなりました。また、ノーマさんの著書(『小林多喜二』岩波新書 2009年1月)にも同様な指摘があります。伊藤ふじ子さんがお通夜に訪れたときの事情の知らないセキさんの態度も悲しみを誘います。三浦綾子さんの著書『母』(角川書店 1998年)にもセキさんのふじ子さんを見る目が書かれています。澤地久枝さんの『定本 昭和史のおんな』もぜひ読んでみたいと思います。
 同じように、塩澤さんの著書を読み、塩澤さんが野呂から結婚を申し込まれたときの心の葛藤、その後の短い結婚生活での2人の同士的な愛情を育んだことにも感動しました。ただ不憫で残念なことは野呂の死後生まれた長女美栄子さんが4歳で亡くなったことです。(塩澤さんはこのとき栃木刑務所にいました。『野呂榮太郎の思い出』巻末年譜より)

 今回の講演テーマではありませでしたが、母セキさんと愛情の深さと絆の強さを感じます。社長さんも車中で話していましたが、多喜二の歩くときの肩の癖への注意、手作りの布団、戦後の老いてからの入党(写真貴重ですね。尚、セキさんは戦後クリスチャンにもなったにもかかわらず、多喜二の意思を継いで入党します。三浦綾子さんの著書『母』にもそのときのエピソードが書かれています。)多喜二の身を案じ、自分の死は知らせないと語ったこと、文字が書けず獄中にいる多喜二へ手紙を出せなかったことを残念に思い年老いてから仮名の練習をしたこと、多喜二の亡骸への語りかけるセキさんのこと等々。様々なかたちで、母子の愛の心が語られています。

 さて今回のツアーで、2人の文学者、経済学者で同時代の若い共産主義者(2人の死亡年が1年違い、命日が1日違い、ともに官憲の虐殺による死)が、あの暗黒の時代に身を投げ打って全生涯を革命運動に捧げる中で、恋人を、妻を、母をこよなく愛し続けたことに、改めて感動させられました。
 私にとってこの2日間は、多喜二と野呂からによる、人生を振り返り、今後の生き方を律するための、最高の贈りものになりました。これからは、多喜二の全集と野呂の『日本資本主義発達史』をじっくりと読むとともに、微力ですが、残りの人生を社会変革の運動に少しでも貢献できるようと決意を新たにしました。

 今回のツアーは、私にとってたいへん有意義な思い出に残るものとなりました。これも、企画運営された社長さんはじめ、スタッフのみなさん、運転手さん、参加されたみなさん、現地の方々のお陰であり、心より感謝しております。
 また機会がありましたら、参加させていただきたいと思います。
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