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 旅システムさんのエントリ配信

2009/03/27
北海道民医連 佐藤誠一氏――冬の韓国を旅して 〜第12回韓国平和と交流の旅〜

投稿: 旅システム (3:00 pm)
  『韓国平和と交流の旅』も12回目の実施となり、本当に充実した内容となっていると自負しています。
今回は直前にキャンセルがあったりして参加者は少なかったのですが、少ないからこその体験や経験もあったりして、本当に楽しい旅でした。
「絶対札幌より寒いよね」といいながら歩いたソウルの街は本当に寒かったです。
(青木)
 


<はじめに>

 私が韓国を、正確には中国を含む東アジア全体を意識するようになったのは90年代の半ば頃、日本の歴史教科書をめぐって、戦前の日本の侵略戦争や「従軍慰安婦」問題で書き換えを求める動きが強まってきた頃であった。その頃、釧路では、計根別飛行場建設での朝鮮人の強制労働、強制連行問題に取り組んだ「釧路かささぎの会」の人たちの精力的な活動に心を動かされていた。
 その時以来、私は歴史の真実を確かめる韓国・中国への旅を一つのテーマにしていた。5年ほど前、今回と同様のツアーを道民医連として呼びかけ、参加するつもりであったが、仕事の都合で断念せざるをえなかった。今回は時間に余裕が出来、1月6日からの旅に参加することが出来た。
 5泊6日の旅であったが、事前の期待を遙かに超える実りの多い旅となった。参加者が少数であったのに、ベテラン添乗員の青木さんが付き、現地の通訳兼ガイドの申(シン)さん(前半の釜山・慶州)、孔(コン)さん(後半のソウル近辺)という組み合わせで、移動するワゴン車の車中も含めて、自由に質問し意見交換できる旅であった。何の気兼ねもなく冬の韓国を「近くて遠い国」から、「私の人生と重ねる国」に切り替える事ができる旅となった。こんなに恵まれた環境での旅は二度と体験できないのではないだろうか?そうした充実感を得た旅となった。今回の旅の機会を提供してくれた「平和と教育を考えるツァー連絡会」と旅システム、そして多くの知見を与えてくれた同行の方々に深く感謝する。

<港湾都市釜山、対馬藩との交易と「日帝」支配の入口>

 新千歳空港を飛び立った大韓航空機は3時間程で釜山上空にさしかかった。左に対馬が見えるはずだが霞がかかって定かでない。低空飛行となって釜山市内が見えてきたが、海は波たちが全くなく、まるで湖のような景観である。釜山はほど近い福岡に似た景観かと思っていたが、草木はすべて茶色ときつね色で緑はない。日本とは違うはっきりとした韓国の冬を表していた。   釜山は人口360万人を超え、ソウルに続く韓国第二の大港湾都市である。
 早速、港と都心部を一望できる竜頭山公園にゆく。公園の中央部分の大きな銅像が人目を引く。なんと、豊臣秀吉の朝鮮侵略とたたかい、打ち負かせた「救国の海将」李舜臣将軍の像だという。この像が侵略者日本を見据えてそびえ建っている。釜山タワーから港と町並みを一望すると、江戸時代に対馬藩駐在施設の「倭館」があり、近くの日本人居住区などが説明される。「鎖国」政策下、対馬藩は釜山との交易ルートを持ち、両国の架け橋の役目を担っていたのだ。今は福岡とのフェリーは3時間弱で行き来し、下関・大阪・金沢などを含めると毎日10往復もの運行という。その釜山は、明治から近年まで日本の侵略、植民地化によって、一方的な「倭人」の都合による港にさせられた歴史を持つ。
 公園から出て間もなく、街中の厳重な構えを持つビルのドアを開けると「釜山近代歴史館」がある。1908年、日本が朝鮮経済を支配するために作った国策会社「東洋拓殖株式会社」の社屋だったという。釜山市が、侵略の象徴であり辛苦に満ちた歴史の現場であったこの建物を公開し、教育の場に活用するため、この「歴史館」をつくった。ここでの展示は今回の旅を進める上で、絶好の導きを得た。朝鮮(韓国)の歴史、日本の侵略の経緯、特に朝鮮の土地と米穀を取り上げ、全産業分野にわたり収奪したいきさつがコンパクトに説明されている。
 日本との記載は見つからない。すべて「日帝」である。以後、何処の「記念館」に行っても「日帝」である。帝国主義と言えばまず、「アメリカ」との認識であった私は、韓国にきたことを強く認識させられた。この最も近い国では、戦前の日本帝国主義の侵略に対する怒りを、記憶だけでなく記録としてもしっかり残そうとしている。初日から、来て見なければ分からない日韓関係を思い知ることとなった。

<慶州、ナザレ園の訪問。日本政府の責任は不問なのか?>

 車で釜山から慶州に向けて走る高速道路沿いに、次々と現れる巨大なマンション群にはびっくりした。韓国の財閥系巨大企業が開発し、建物の壁に大きく企業のロゴマークが書かれている。韓国ではアパートと言っており、日本と表現が「反対」のようである。地震がないので30〜50階の建物が10〜20と林立している。安定した収入の人たちが好んで住むとの事だが、経済危機が襲う中、この新しい「コミュニテイ」でどんな地域づくりと市民意識が芽生えるのだろうかと考えをめぐらした・・・・・。
 慶州は日本の奈良・京都のイメージで、美しい韓国の古都である。世界遺産の「仏国寺」や「石窟庵」「古墳公園」など文化財が多く、観光の名所である。
その近くに「ナザレ園」という施設がある。「旅システム」はかねてからこの施設を訪れ入所者と交流している。韓国が日本に支配された時期、韓国人と結婚した日本女性が終戦後、ふるさとの韓国に帰る夫とともに来たが、朝鮮戦争で夫を亡くすなどで一人の生活を余儀なくされた。日本人に対する厳しい対応もあり、どん底の暮らしを強いられた。
 抗日独立運動で父親を日本人に殺されたという、韓国人カトリック神父の金さん(6年前死去)が1972年にこの施設を作り、日本人妻を保護するとともに帰国希望者147人を日本に送り届けてきたという。今は宋さんが引き継ぎ、民間の社会福祉事業として運営している。入所者は24人で、平均年齢87歳。日本への帰国希望者はいないという。韓国全土で同じ境遇の日本女性は200人いるというが、うち60人に対して在宅での支援も行っている。運営は行政からの補助はあったが、自主財源で調達してきたそうだ。しかし、一昨年4月から始まった介護保険制度で、行政からの財政支援がなくなりピンチに陥っているとの事。「併設で運営する老人施設との関係で財布をやりくりしている」と語る宋さんも苦渋の表情。日本をまねて、急いで導入した韓国の介護保険制度も問題を抱えたままにスタートのようである。
施設は「日本財団」の寄付で建てた立派な建物で、広くきれいな居室をはじめ設備が整っているように見えた。おばあちゃんたちと「ふるさと」の歌など一緒に歌い交流したが、とても元気で話が止まらない。衛星テレビで相撲をみるのが楽しみで「朝青龍に負けるな、日本の力士が頑張ってほしい」と激励された。若い日本の力士の名前を出して質問されたが、その名前が分からなく困惑してしまう・・・・。
 離れて様子を見ていた通訳の申さんは、初めて知った事実と私たちとの交流に涙を流しっぱなしでした。本来、日本政府が施設の運営に責任を持つべきなのに。善意を超えた民間福祉事業家の努力で日本人妻が安心の住処を持つことができている・・・・。日本国内での世論喚起が大切と痛感し、このツアーが毎回訪問することの意義をかみしめた。

<在韓米軍基地「平澤」(ピョンテク)、たたかう平和センターを訪ねて>

 平澤はソウルへの通勤圏で農村が都市化している人口43万の都市である。米軍再編で基地強化が進められ、それに反対する運動も広がっており注目を集めている地域でもある。5年前、首都ソウルのまん中にある「龍山基地」(8,000人)などを、平澤に移転することで米韓政府が合意し、「100年使える永久駐屯米軍基地」へと動き始めている。農民から土地を取り上げ、大量の土砂を運び込み、高さ3〜4辰寮垢蠹攤邏箸鯊海韻討い襦7弉菷表以来、反対運動が広がり、07年10月「平澤平和センター」が結成された。街場にあるセンターの事務所を訪ね、所長の姜相源さんと役員の農民の方にお会いした。姜所長はそれまで労組の役員であったが、今はセンターの専従者として活躍している。しかし、「センター」は180人の会員で支えられているといい、組織的には決して盤石とは言えない。事務所を入ると隅に別の小さい部屋があり、購買生協の事務所だという。同居し協力しながら新運動を立ち上げようとする動きのように思えた。
 韓国は80年代後半にやっと民主化を勝ち取ったが、民主運動もそれなりの特徴を持って進んでいる。特に米軍基地についての受け止めは、朝鮮戦争「休戦状態」の中、「北」からの脅威に対して、国連軍としての米軍駐留との関係から「親米派」もかなり根強い。最近は反米運動的要素も含まれているようだが、日本とは違った複雑さを持っているように思う。
 米軍再編では基地の縮小再配分とともに、韓国軍の役割強化も進む予定とのことで「徴兵制」を持つ韓国の青年・学生にとって、米軍との関係が今後の大問題として直面することが予測される。韓国の男性は19〜29歳の間で2年間の兵役が義務づけられている。KTC(韓国高速鉄道)の東大邱駅では軍服を着た若者のカップルを何組か見たが、日本以上の出生率の低さの要因の一つとして徴兵制をあげる意見もある。民主化がすすみ、日本をはじめ世界の青年との交流が進む中で徴兵制や米軍支配に対する議論と運動がすすむものと思う。
 立ち上がったばかりの「平澤平和センター」の活動は、日本も含む東アジアの激動との関係でその行方が左右されると思う。韓国の民主化運動が平和運動も含む総合的な運動として発展することを強く願うものである。

<独立記念館と若者の歴史認識問題>

 とにかく広大な敷地で、スケールの大きなモニュメント・七つの展示館・詩や語録碑が建っている。とても一日で回りきれる記念館ではない。1987年8月15日に開館とのことで、まだ20年ちょっとである。いきさつは日本の教科書問題で、82年、日本の文部大臣が「侵略は無かった」発言に対して韓国中の怒りが爆発し、当時の全斗煥大統領が国民的募金運動で「記念館」建設を呼びかけたことに始まる。パンフレットには「全国民が自発的に募金運動を行い、関連資料を無償で寄贈し」と書いてある。民間施設だが国民が作った「記念館」なのだ。七つの記念館は「民族の伝統館」「近代民族運動館」「日帝侵略館」「3.1運動館」「独立戦争館」「社会・文化運動館」「大韓民国臨時政府館」で、「民族の伝統館」以外は、日本の侵略とそれに抗して独立を目指してたたかった経過を生々しく伝えている。明治維新後の日本の朝鮮への余りにも酷い侵略の事実に、たびたび目を覆いたくなり、胸が苦しくなる。「侵略した」ことは知っていても、こんなにもむごたらしく、朝鮮人の命を虫けらのように軽んじてきた事実に直面し、虚脱感さえ感じる。心からの謝罪とその歴史を踏まえて、韓国・中国などとの信頼と共同の関係作りに努力しなければとの想いを強くした。
 通訳の孔さんの話では、子供のとき学校で二度は見学に来るという。今の韓国の若者は全員この「記念館」を見学して、日本の侵略、拷問・虐殺の事実を目の当たりにしている。
 日本の若者のほとんどは、こんなむごたらしい侵略者日本の姿を認識していない。むしろ、「靖国派」などによる歴史の歪曲運動が、事実と向き合う機会を遠ざけている。日韓青年の交流の機会も確実に広がっているが、日本の青年がこの侵略の事実を知らないことが判ると、韓国の青年はきっと落胆し軽蔑するだろう。この問題をどう打開してゆくのか。「日・中・韓」三国による共同の歴史教育づくりなどが進んでいるが、そのことの大切さを痛感する。東アジアの近現代史での共通認識を作り上げることは、これからを展望するとき日本人に欠かせない大きなテーマであることを思い知った。

<復元進む「景福宮」と閔妃暗殺事件>

 景福宮は朝鮮王朝時代(李氏朝鮮)の1395年に建立され、200年後の豊臣秀吉の侵攻(文禄の役)で消失するまで王朝の「正宮」として使用されていた。その後、270年にわたって放置されていたというが、1865年、26代国王高宗の時代に父大院君の意向で再建された。
 1894年、日本軍の一団が宮殿の一番奥にある「乾清宮」(王夫妻の休憩・寝室)を襲い、反日的であった王妃閔妃を暗殺し焼き払うという大事件を起こした。明治政府は事の真相をあいまいにしたまま、日露戦争に突き進んだのである。そして、1910年「日韓併合」により、この王宮の建物のほとんどが破壊され、正門である光化門が移され、その後、正殿などを覆い隠すように「朝鮮総督府庁舎」が建てられた。朝鮮侵略の象徴であるこの建物は、敗戦で日本が撤退した後、博物館として使われていたが95年解体。その塔の部分などが独立記念館に移築し、モニュメントとして展示されている。
 現在、この景福宮の復元工事が行われていた。「朝鮮総督府」が無理矢理建てられて100年後に当たる、2,025年完成を目指す大きな工事である。今回訪ねた時は光化門の復旧工事が進み、閔妃殺人事件の現場となった「乾清宮」が完成していた。事前に説明を依頼してあったので、若い女性のガイドが大きな身振りで熱を込めて説明してくれた。(残念ながら韓国語なので詳しい内容は不明)  この事件は日本に置き換えると「皇居」を外国軍隊が襲い、皇后を殺害したことに当たる。しかし、日本の教科書には記載が無く、日本の若者は知る由もない。
 ところが、韓国では事件の100年後の1995年、ミュージカル「明成皇后」(閔妃は死後、「明成皇后」とされた)が上演されなんと100万人以上が鑑賞したという。01〜02年には、韓国放送公社がドラマ「明成皇后」を放映して大反響を呼んだ。韓国の若者で「明成皇后」を知らない人はいないというのは通訳の孔さん。韓流ドラマが次々と入り込む日本にこのドラマは放映する気配はない。それだけに、閔妃暗殺事件を今、多くの人たちに伝えることが必要だ。早速、角田房子著「閔妃暗殺」(新潮文庫)を手に入れた。よく調べ上げた立派な「歴史書」である。

<ナヌムの家と日本軍「慰安婦」歴史館を訪ねて>

 昨年5月、札幌で日本軍「慰安婦」問題を考える集いが行われた。今回の旅の目的のひとつは、その集いに参加してくれたハルモニ(おばあさん)の李玉善さんと研究員の村山一平さんにお礼し、募金・残金を届けることであった。
 李さんは体調が悪く、青木さんがお部屋を訪ねてお見舞いしてきた。村山さんはお休みを利用して中国に行き、中国人「慰安婦」を訪ねてきた直後で、お疲れにもかかわらず丁寧に説明してくれた。同時に、夕食をご一緒することが出来、意見交換する機会を得ることが出来た。
 当日の入所者は91歳〜82歳の8人で、寝たきりは二人という。「生活館」での交流には3人のハルモニが出てきてくれ、短時間であったが流行歌や高倉健の話などして過ごした。韓国政府は名乗り出た元「慰安婦」で、政府が「登録」した人は234人と発表しているが、現在生存者は95人位という。
 もともと「慰安婦」問題は、日本政府が「慰安婦」は「民間業者がやったことで、日本軍は関係ない」との国会答弁に対して、被害者の金学順ハルモニ(おばあさん)が公然と姿を出して抗議した(91年)ことに始まる。
 翌年からソウルの日本大使館前で水曜集会が行われ、800回を越えた今も欠かさず行われている。
 この間、日本では教科書から「従軍慰安婦」の言葉が消え、市民団体が行った「女性国際戦犯法廷」を放映したNHKのETV特集に安倍晋三、中川昭一らが政治的圧力をかけて内容を変るなどの逆行が進んだ。
 しかし、国連での報告、アメリカ。カナダ、オランダの下院、オーストラリアの上院、EUによる欧州議会での決議など国際世論は日本に謝罪を強く求めている。中国、台湾、フィリピンなどでも被害者の動きが進められている。
 ナヌムの家に併設した「歴史館」は「性奴隷」をテーマにした世界最初の博物館である。研究員としてここに住み着き、ハルモニの生活を支えている28歳、独身の村山一兵さんはこの問題のエキスパートである。
 我々の見学に、たまたま20人くらいの外国人混じりの学生グループが重なり、一緒に村山さんの説明を聞いてじっくり回った。さすがに「性奴隷」問題の専門研究員である。国際的視野から熱がこもった、しかし事実に基づく説得力のある解説がなされた。二十歳前後の女性がやや多いグループの面々は全員集中して、日本軍の性犯罪の酷さと、国として一切の賠償を行っていない現状に、強い怒りを感じたと思う。このグループは「SGI」のロサンゼルス校の学生だという。この「歴史館」がこのように多くの学生に見てもらうことが重要である。ちなみに現在、年間二千件ほどの来館で、日本と韓国が半々とのこと。
 私は「慰安所」がかつて日本にもあり、北海道釧路地方に印しがあることに驚いた。長野県松代では、「大本営工事」に関する展示室に「慰安所」に関する資料も展示しているという。北海道でも事実を掘り起こし、日本軍の犯した「性奴隷」の事実を受け止め、しっかり謝罪し、伝えてゆくことが必要だ。村山さんはここで10年、勤務しながら研究員としてすごすという。彼の日本人としてこの問題にかかわり、研究テーマとした者の勤めとして選んだ生き様に心から敬意を表したい。国の謝罪と賠償問題をなんとしても実現するまで、連帯して取り組んで生きたい。決意を新たにした。

<おわりに>

 今回の旅は堤岩教会と資料館、西大門監獄、タプコル公園など日本の侵略の史実に欠かせない場所も訪れた。タプコル公園では入口で「竹島問題」で日本への抗議集会が開かれていた。通訳の孔さんも車中、「どうして日本は竹島を領有しようとするのか」と質問してきた。韓国では日本の侵略の歴史の中から竹島を考えている。この問題ででも、過去の戦争に対する日本の責任を明確にした上での話し合いが不可欠と痛感する。タプコル公園の3.1独立運動のいくつものレリーフと宣言文は、あいまいな形で歴史を不問にすることを硬く拒否する韓国の立場を強く表明している。
 世界的な経済危機は世界の新しい枠組みを余儀なくさせており、日本は、韓国を始め東アジアでの共同を基本とした転換が切実に求められる。今回の旅は今後の世界と日本の位置を考える上で、本当に多くの示唆を得る事が出来た。
 韓国料理も数々の市場の散策も、「民俗村」での高麗人参茶と「シンバッタ」(山で高級な高麗人参を見つけたこと)の話も、温陽での温泉もそして買い物もどれも素敵な時間であった。寒いソウルの一月は、次々と体験した旅の醍醐味と、新たに得た知見をもとに戻ってからのやるべき事を考えさせられ、心は火照りを高めさせた。早朝にもかかわらず、仁川空港まで見送りにきてくれた孔さんに別れを告げ、身近になった「近くて遠い国」をあとにした。
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