一度は行きたい、行かなければならない旅でした。
 三船がソ連の潜水艦に撃沈され、最後に爆撃された泰東丸が沈没した小平町鬼鹿の「三船殉難慰霊之碑」の前に立ちました。日本の敗戦後の8月22日に、左側から増毛町で小笠原丸、留萌市で第二新興丸、泰東丸が目の前の小平町で潜水艦に大砲を発射され、撃沈しました。目の前海は、強い風で波も高く灰色でしたが、8月の海は青色で穏やかだったと思いますが、それでも突然射撃されて海に投げ出され、北海道の地を目の前に沢山の人たちが亡くなり、それも女性や子どもがほとんどだった。泰東丸は、667人が死亡し、生存者は113人といわれています。この667人の中に私の身内がおり、113人の中に祖母と3歳の叔父がいたのです。
 私が小学校に入るころの記憶に、どうしてか祖母が親戚の人が来ると泣いている、そして叔父さんが悪いことをすると、「お前なんか海に落として来ればよかった、(女の子の名前)の手を離さなければよかった」と叱っていた、これは兄弟も聞いていたという。また、仏壇には、知らない女の人や子どもの写真がありました。
 その後母に聞いたところ、祖母は8月22日、樺太から引き揚げて泰東丸に乗船。16歳の長女、13歳,10歳、5歳の姉妹4人、8歳と3歳の男の子、そして私の父の当時の妻と2歳の息子と9人が乗船していました。泰東丸は前の2船に続き、潜水艦によって撃沈され、祖母は船から落とされ、両手に5歳の四女と3歳の末っ子の叔父さんをかかえながら板切れにつかまり、長時間漂っていたそうですが、疲れ果てて5歳の女の子の手を離さざるを得なかったそうです。海を見ていて、その時の祖母の悲しさ、無念さを思うと胸が痛みます。泰東丸は物資の輸送にあたっており、船倉に物資を沢山積み込んでいたので甲板に多くの人たちがいて、潜水艦からの射撃に周りの人たちがバタバタ倒れ、海に投げ出されたそうです。残りの7人は、遺体や遺品すら見つかっていません。
 その後、兵隊にとられていた祖父、長男の父と2人の叔父は無事帰還し、祖母はホッとしながらも、ずっと苦しみを背負っていたと思います。祖母と父たちは広島村(現北広島市)に入植し、慣れない農業で苦労しながらも生活の基盤を作っていきました。でも、祖母は終戦から9年後に57歳でみんなの傍にいきました。
 風の強い中、「慟哭の海に誓う」、「三船殉難慰霊の碑」の一番端に上に鳩が羽ばたいている「平和への祈り」と読める碑があり、朝気が付いて庭の雪の下の菊を一握り持参したので、手向けました。そして今、平和や憲法を壊すうごきが強まり、大軍拡のため福祉やくらし等の切り捨てが強まる中で、叔母や叔父の命を奪い、祖母を苦しめた時代に逆戻りさせてはいけないと決意を新たにしました。

 翌日は、中国から強制連行され昭和炭鉱で強制労働させられた劉連仁さんの逃亡の足跡をたどりました。次に、新十津川村の「西田信春碑」を訪ねました。雪が深くて碑の傍まで行けませんでしたが、公園になっていて地元の方の西田信春や先人の命をかけた闘いへの熱い思いを感じました。

 帰りのバスで内山社長が、旅システムの「平和ツアー」について、役割や思いを話されました。特に、「歴史は、目で見て、話しを聞いて、事実を知ることが大事。だから、ツアーに行ったところで、歴史に関わった人達に会い、話を聞くようにしている。議論することが大事。今も、軍拡ではなくもっと議論が必要ではないか」と述べたことに、とても共感しました。
 最後に、内山社長が太鼓判を押した増毛町「まつくら」の“海鮮丼”は、本当に美味しかったです!

札幌市 土岐(吉根)由紀子