この度は、「伊藤千代子のロケ地をたどる長野平和と文化の旅」を企画していただき、本当にありがとうございました。
十勝で映画上映運動に携わり、関係書籍も読んでいましたので、ツアーでなくても個人で訪問するつもりでしたから、旅システムからご案内をいただいたときに、真っ先に申し込みました。
 「戦争のない、みんなが笑顔で平和に暮らせる社会をつくりたい」
千代子とちひろの思いが重なり1本の線として捉えることができました。
ちひろは千代子より13歳年下です。
ちひろ美術館は2度目でしたが、
展示につけられたキャプションに心が止まりました。
ちひろは言います。

私の娘時代はずっと戦争のなかでした。
女学校を出たばかりのころは
それでもまだ絵も描けたし
やさしい美しい色彩がまだ残っていて
息もできないような
苦しさはなかったのですけれど
それが日一日と暗い
おそろしい世の中に変わっていきました。

千代子はその戦争の足音を止めたかったのです。
止めていれば、
貧困の故、満蒙開拓を夢見て中国人の土地を奪うことも
敗戦による逃避行で大陸にわが子を置き去りにすることも
絵を描き続けたかった画学生に命を捨てさせることもなかったのです。

ちひろは言います。
戦争が終わって
はじめてなぜ戦争が
おきるのかということが学べました
そして、その戦争に反対して
牢に入れられた人たちのことを知りました。
殺された人のいることも知りました
大きい感動を受けました
そして、その方々の人間に対する
深い愛と、真理を求める心が
命をかけてまでこの戦争に
反対させたのだと思いました。

この思いでちひろは千代子の歴史のリレーランナーとなるのでした。
その思いをちひろは次のように書いています。

戦争をやめて正しい人を殺してはならない
私はこの切なる気持ちから以外にコミュニストになったのではない。
哲学や理想からなったのではない
本当に平和のために圧迫された
人民のために闘う「わが愛の記録 1950年7月1日」

朝鮮戦争が始まり、3たび原水爆が使用される危険を阻止すべく
全世界で取り組まれたストックホルムアピールの署名運動。
そうした情勢の中で、この文章が書かれたのです。

ちひろの好きだったもの
バスケット、水泳、弓道、スキー、六大学野球観戦
クラシック、ベートーヴェンの「田園」交響曲
愛読書は樋口一葉の「たけくらべ」

ちひろが通学した第八高女(現在の都立三田高校)での
校長丸山丈作の教え
「賢くなること」
「強くなること」
「世のため人のため尽くすこと」

千代子が師・土屋文明の教えを受け敬愛していたように
ちひろにもそういう存在があつたのです。

千代子があと50年生きていたら
ちひろがあと30年生きていたら
日本の女性解放運動や平和運動にどれだけ貢献したでしょう。
そう思うと悔しくてならないのです。

ちひろの母文江の実家が松本でした。
松本市城山公園には、ガイドをしてくださった祖父江さんが関わった
「いわさきちひろ記念碑」があることを知りました。
次回は松本1日フリーコースで。
松本をじっくり堪能したいと思います。

上士幌町 山本政俊